篠山城大書院 徒然日記

2016年01月

官兵衛の野望
黒田如水(官兵衛)
加藤清正
立花宗茂、島津義弘
 
 
 黒田如水(じょすい・官兵衛)は、軍師として豊臣秀吉の天下統一を支えた人物でしたが、その領国は功績に見合わぬ中津12万石にとどまっていました。一説によると、如水の才を警戒した秀吉による仕置きであったと言われています。

 慶長5(1600)年、既に家督を継いでいた如水の嫡男・長政が、上杉討伐のために城を留守にしていた時に事件は起こりました。石田三成が挙兵したとの知らせが届いたのです。
 その知らせに、如水の心は湧きました。この戦国の世に、自らの才覚がどこまで通用するのかを試す最後の機会だったからです。
 これを機に九州地方を制圧し、西軍が勝てば西軍に与し、嫡男の長政が属している東軍が勝てば、「家康のために九州を制圧していた」と述べて、東西両軍のどちらが勝っても良いよう行動していたとされています。さらに、あわよくば東西どちらかの軍が勝っても、かなり疲弊していることが予想されることから、九州を従えたのち中国地方に攻め入り、関ヶ原の戦いに勝ったものの弱っている軍を討って天下を狙うという公算もあったのではないかと言われています。

 如水は城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、9,000人ほどの即席軍を作り上げました。この軍勢には九州、中国、四国からも噂を聞き及んで人々が集まったとされています。
 折しも、九州の大名であった大友宗麟(おおとも そうりん)の嫡男にして、朝鮮出兵のときの不手際で豊臣秀吉に改易処分を受けていた大友義統(おおとも よしむね)が、西軍に与した毛利輝元の支援を受け、お家再興を目指して豊後国に攻め込んでいました。義統は、東軍の細川忠興(ほそかわ ただおき)の領地である杵築(きつき)城を包囲攻撃しました。杵築城を守っていた細川家臣の松井康之(まつい やすゆき)から援軍の要請を受けた如水は、直ちに編成した軍を率いて杵築城救援に向かいました。

 大友軍に属していた吉弘統幸(よしひろ むねゆき)は武勇に優れた武将であったため、如水の軍は苦戦を強いられましたが、最終的には見事に大友軍を撃破しました。

 如水が大友軍に勝利したころ、「東軍勝利」の報告が入ってきました。如水は家康に、「切り取った領地を自分のものにさせてほしい」と申し入れ、西軍に属していた九州の武将の領地へ次々に攻撃を仕掛けていきました。

 さらに如水は、臼杵城や日隈城、小倉城などを次々に攻め落とし、関ヶ原の戦場から退却してきた島津義弘(しまづ よしひろ)の軍船を焼き沈め、小早川秀包(こばやかわ ひでかね)の久留米城を攻めました。

 一方、関ヶ原の西軍敗北の報を受けて、大津城攻めを行っていた立花宗茂は、居城である柳川城へ退却していました。宗茂は、秀吉から「剛勇鎮西一」と称された名将で、朝鮮出兵の際には絶体絶命の危機に陥っていた加藤清正を、寡兵にて救出したという傑出した武力の持ち主でした。
 宗茂は関ヶ原の戦いからの撤退途中、島津義弘と同行することになりました。義弘は秀吉による九州征伐の際、宗茂の実父である高橋紹運(たかはし じょううん)を討った父の敵でした。立花の家臣は、「この機に島津を討ち取るべし」と進言しましたが、宗茂は「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言ってその進言を退け、むしろ島津軍の護衛を申し出でて義弘と友誼を結ぶなど、並み居る武将から一目置かれる存在でした。

 そんな立花宗茂でしたが、西軍の敗北により孤立無援となり、肥前の鍋島直茂(なべしま なおしげ)や加藤清正、そして黒田如水の大軍に包囲されてしまいました。しかし朝鮮出兵で軍を共にした如水や、宗茂に命を救われていた加藤清正らによる必死の説得により、最終的に宗茂は如水の軍に降ることになりました。島津義弘は領国へ帰ると、宗茂から受けた恩義に報いるために柳川への援軍を送りましたが、援軍が柳川へ到着したのは開城から3日過ぎた後でした。

 鍋島直茂、加藤清正、立花宗茂を加えた如水の軍は、九州最後の敵対勢力である島津討伐へ向かいました。
 しかし、肥後まで軍を進めたところで、突如として家康から停戦の命令が届きました。島津が家康と和議を結んだため、島津討伐の大義名分を失ったことが原因でした。如水の野望は、この停戦命令をもって終わりを迎えました。

 関ヶ原の戦いは、わずか8時間という短時間で決着しました。これは如水にとっても大きな誤算であったと思われます。本来であれば、拮抗した東西両軍が関ヶ原を挟んで戦況が膠着し、その隙に空白地帯となった九州を制圧し、吸収した兵力を率いて東へ攻め上がる算段であったと予想されますが、関ヶ原の本戦が予想外に早期に決着してしまったために、如水の野望は志半ばにして終焉を迎える結果となりました。

 結果的には、東軍のために九州を制圧していたと形になり、関ヶ原の戦いで功績のあった嫡男の黒田長政に加え、藤堂高虎や井伊直政の勧めで如水にも恩賞を与えてほしいとの声があがりましたが、如水はこれを辞退し、隠居生活を送るようになりました。

 その後、晩年の如水は中央の政治に関与することなく、隠居先の屋敷に身分の低い者の子どもたちを迎え入れて存分に遊ばせ、子どもたちがやんちゃして家の障子を破っても叱らず、目を細めて可愛がる好々爺として過ごしました。
 
黒田如水
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【東軍】加藤清正
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【西軍】立花宗茂、島津義弘
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第二次上田合戦
徳川秀忠

真田昌幸
 
 
 慶長5(1600)年、徳川家康(とくがわ いえやす)は上杉家を討伐するため、軍を率いて会津へ向かっていましたが、下野国(現在の栃木県)小山(おやま)の地にさしかかったとき、「石田三成挙兵」の知らせを聞かされました。
 家康は諸将を集めて評議を行い、「自分は三成討伐のため西に軍を向ける。どちらに加担するのか決めてほしい。」と諸将に伝えました。世に言う「小山評定」です。
 これに対し、福島正則(ふくしま まさのり)をはじめとした多くの武将たちが家康に従う意志を表明しましたが、信濃(現在の長野県)の大名・真田昌幸(さなだ まさゆき)は、石田三成率いる西軍に参加するという決断を下しました。

 小山評定で東軍と袂を分かった真田昌幸は、西軍に参加している大谷吉継(おおたに よしつぐ)の娘を妻にもつ二男の信繁(のぶしげ、幸村とも)と昌幸自身は西軍に参加する一方で、徳川四天王の一人・本多忠勝(ほんだ ただかつ)の娘を妻としている嫡男の信幸(のぶゆき)は東軍に参加させました。これは、東軍・西軍どちらが勝っても真田家を存続させるためであったと言われています。

 小山評定を終えた家康は、自身は準備を行うために一度江戸に戻り、家康の嫡男である秀忠(ひでただ)を総大将とした別働隊を西の戦場へ向かわせました。
 一方、昌幸は上田城に帰還する途上で、東軍につかせた信幸の居城・沼田城を奪おうと画策し、沼田の留守を預かっていた信幸の妻・小松姫に「孫の顔が見たい」と言って開門するよう願い出ました。しかし、これは城を奪おうとする昌幸の策略であると見抜いた小松姫は丁重に拒絶し、昌幸を場内に入れませんでした。これにはさすがの昌幸も「さすがは本多忠勝の娘じゃ」と笑って上田に引き返すしかありませんでした。

 徳川秀忠は、38,000人とも言われる大軍で、上田城へ向けて進軍しました。一方、対する真田の軍勢は、わずか3,000人程度でした。
 はじめ、真田昌幸は秀忠に降伏する意思を表明して数日の間時間を稼ぎ、土壇場になってから態度を翻し、徳川軍に対して抗戦する態度を示して秀忠を挑発しました。これに怒った秀忠は、真田信繁が籠る砥石(といし)城に、兄の真田信幸が率いる軍勢を差し向けました。これに対し、真田昌幸は、砥石城の守備を担当していた信繁に、戦をすることなく城を放棄させ、信繁を上田に撤退させました。これは、また真田の同族の間で争うことを避けるため、そして東軍に属した信幸に功を挙げさせるためであったと言われています。

 砥石城を制圧した徳川秀忠は、真田昌幸の居城である上田城へ進軍しました。これに対し昌幸は、徹底した籠城策で対抗しました。真田軍の地の利を生かした巧みな戦術によって大きな被害を出した徳川秀忠の軍は、わずか1日にして撤退せざるを得ませんでした。

 徳川秀忠にとって、この戦は初陣であったとはいえ、徳川軍には徳川四天王の一人である榊原康政(さかきばら やすまさ)や家康の側近・本多正信(ほんだ まさのぶ)、そして豊臣秀吉に古くから仕え、小田原城攻めでも大きな功績を挙げていた仙石秀久(せんごく ひでひさ)ら優秀な将を従えての戦でした。総大将が初陣であったとしても、優れた将を揃え、兵の数に勝る徳川軍を退けることは容易ではなく、上田城での大勝利は、真田昌幸の巧みな戦術眼の成せる業であったと言えるでしょう。

 結局、上田城の戦いで大きな足止めをくらった秀忠の軍は、さらに道中の悪天候という不運も重なり、大軍を擁しながらも関ヶ原の戦いに遅参するという失態を演じてしまい、家康からひどい叱責を受けるという憂き目に遭ってしまいました。

 一方、真田昌幸は戦には勝利したものの、属していた西軍の敗北により、絶体絶命の窮地に立たされることになりました。当初、家康は真田家の行動に激怒し、昌幸と信繁を処刑しようと考えていましたが、東軍に属した真田信幸や、信幸の妻の父・本多忠勝の必死の訴えにより処刑は免れ、紀伊九度山(くどやま)へ配流となりました。この後、信繁は十数年にわたって、九度山での軟禁生活を余儀なくされ、昌幸は失意のうちに病死しました。

 信繁は、来るべき大坂の陣まで、九度山の地で雌伏の時を過ごすことになるのです。
【西軍】真田昌幸
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【東軍】徳川秀忠
 
 
 

 

慶長出羽合戦

最上義光伊達政宗

上杉景勝
 慶長5(1600)年、徳川家康(とくがわ いえやす)の専横に反発して挙兵した上杉軍は、徳川家康を追撃する前に後顧の憂いを絶つため、出羽の最上義光(もがみ よしあき)を攻めました。
 上杉の家老・直江兼続(なおえ かねつぐ)を中心とした軍勢に対して、最上軍は決死の抵抗を見せていました。上杉軍は、最上軍の反撃により思うように進軍することが出来ず、最上領の長谷堂(はせどう)城を包囲する頃には、多大な死傷者を出していました。

 圧倒的な兵力さにより、次第に押し込まれる最上軍。この状況を打開すべく、義光は甥である伊達政宗(だて まさむね)に援軍を要請し、政宗は一族の留守政景(るす まさかげ)を援軍として差し向けました。

 その時、上杉陣中を揺るがす衝撃的な情報が舞い込んできました。
 「石田三成(いしだ みつなり)、関ヶ原にて敗北」
 
 親友・三成の敗北の知らせを聞いた兼続は、切腹を決意したと言われています。これを上杉家臣となっていた前田利益(とします、慶次郎とも)に諌められ、思い留まったとされています。

 絶体絶命の上杉家を救うため、直江兼続はただちに撤退の下知を飛ばしました。
 一方、撤退する上杉軍に対して、最上・伊達連合軍が追撃を仕掛けました。この時、上杉軍の撤退を助けるために奮戦したのが、天下人・秀吉から「天下御免」を許された傾奇者・前田利益でした。利益は、水原親憲(すいばら ちかのり)ら上杉家臣らとともに奮戦し、上杉軍の撤退を大いに助けたと伝わっています。

 直江兼続も、自ら殿(しんがり)を務め、懸命に追撃する最上軍の猛攻を防ぎながら、主君・景勝(かげかつ)を無事に撤退させました。

 兼続の奮戦を目の当たりにした最上義光は、「西軍敗戦の知らせをきいても、直江は臆することなく冷静に陣を払って撤退した。謙信公の武勇が残されているのであろうと素直に思う。」と称賛したとされています。
 こうして、無事に撤退を遂げた上杉軍でしたが、彼らにもたらされた運命は、大変厳しいものとなりました。上杉景勝は直江兼続とともに上洛し、徳川家康に謝罪しました。これにより、お家断絶は免れたものの、120万石あった領地が、出羽米沢30万石へ減封されるという大変厳しい処分を受けることとなりました。これにより上杉家は、限られた領地で家臣らを養うため、苦しい生活を余儀なくされることになるのです。
 一方、上杉軍の猛攻を耐え抜いた最上家は、その功績を家康に称えられ、出羽山形57万石を与えられ、山形藩の基礎を築き上げました。
最上義光・伊達政宗連合軍  
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上杉景勝 & 直江兼続
 
 

 本能寺の変から、わずか11日という短期間で散った明智光秀の野望。織田家中でも屈指の実力者として名を馳せた光秀は、なぜこのように短い期間で滅亡してしまったのでしょうか…。
 そこには、3つの大きな「誤算」があったと思われます。
 その「誤算」とはいったい何だったのか。
 そして、光秀はどうすれば天下を獲ることができたのでしょうか…。
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 山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた光秀は、いったん勝龍寺城へ退却しましたが、秀吉軍の追撃を警戒し、すぐに近江の坂本城へ落ち延びようと密かに城を抜け出しました。しかし、途上の小栗栖の地にて地元の農民の竹槍に貫かれて、その生涯を終えました。
 光秀を破った秀吉は、尾張清州城で開かれた織田家の後継者を決める会議(清州会議)にて、織田信忠の嫡子で、信長の孫にあたる三法師を後継者に指名し、自らがその後見になることで、実質的な信長の後継者として名乗りを挙げました。
 その後、秀吉に反発する信雄・信孝ら信長の息子たちや、柴田勝家、徳川家康らとの戦いを経て、名実ともに信長の後継者としての立場を確立しました。

 さらに秀吉は、天下統一のため四国、九州、関東を征伐し、信長が成し得なかった天下統一を果たしたのです。
 
 
 光秀が秀吉に勝てなかった理由は前述のとおり様々な理由が考えられますが、本能寺の変以後の光秀の行動を見てみると、彼の人間性の一面が伺えます。

 明智光秀は「理想に生きた男」であったのではないでしょうか。

 光秀は本能寺にて信長を討った後、細川筒井ら懇意にしている武将たちに協力の要請を行っています。光秀としては、縁戚関係を結んでおり、日ごろから親しくしている彼らならば、当然自分に協力してくれるものと考えていたに違いありません。
 戦国の世では、自分を裏切らないように、相手の武将から人質をとることが常道でした。しかし、光秀はその道を選びませんでした。

 また、光秀は自らの正当性を担保すべく、まずは「朝廷工作」に力を入れています。なりふり構わず勝つことだけを望んでいたのであれば、朝廷工作よりも、周辺諸国を力づくで切り崩したほうが現実的です。それにも関わらず朝廷工作に力を入れたのは、謀反に奔った自らの正当性を朝廷に認めてもらうことによって、主君を討って天下を奪った悪逆の徒」としてではなく、天下万民のために、魔王・織田信長を討った義の使徒」として天下を治めたいという理想があったのではないでしょうか。

 さらに、秀吉との決戦の地である山崎の地でも、光秀は大山崎の町を占領することなく、川を挟んだ勝龍寺城を本拠としています。大山崎の町は、戦国の世では稀な、民から選出された代表によって政務を執り行う民主的な運営を行っている地でもありました。そんな大山崎の町を戦火に晒すことは、民政家として知られた光秀の望むところではなかったのかもしれません。

 これらの考察は、もちろん推測の域を出ないものであり、本当の理由は光秀本人しかわからないものですが、理想を目指すあまり勝機を逃した光秀と、現実を見つめ、人の心をつかんだ秀吉との戦いとして山崎の戦いを捉えると、非常に興味深いものが見えてくるのではないでしょうか。

 結果はどうあれ、光秀のとった行動は、現代の世でも我々の心をつかんで離さない大きな魅力があるのは確かです。

 天正十(1582)年6月2日、突如謀反(むほん)を起こし、京 本能寺にて主君・織田(おだ)信長(のぶなが)を討った明智光秀(あけち みつひで)は、自らの正当性と訴え、勢力を盤石とすべく朝廷や公家(くげ)へ寄進するなどの工作活動や、諸大名へ協力の要請を行うなど、織田信長亡き後の畿内を支配すべく準備を進めていました。

信長とともに織田家の家督を継いでいた嫡男(ちゃくなん)の信忠(のぶただ)を討ったことで、織田家中は大混乱の最中にあった。次男・信雄(のぶかつ)や三男の信孝(のぶたか)には、父や兄のような統率力は無く、織田家臣で各方面へ配置されていた軍団長たちも周辺大名と交戦中で、直ちに京の光秀のもとへ駆け付けられる状態ではありませんでした。

諸将が身動きできない間に畿内を掌握し、朝廷の後ろ盾を得ることができれば、天下は光秀の手の内に転がり込んでくる…はずでした。
しかし、歴史は光秀の思惑通りには進みませんでした。

 敵対しているはずの毛利(もうり)家と和議を結んだ羽柴秀吉(はしばひでよし)が、光秀追討の兵を集めながら驚くべき速度で京へ向かっているという情報が入ったのです。
 
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 畿内を統一すべく動いていた光秀でしたが、周辺大名の協力を得ることが出来なかったため、娘婿の明智秀満(あけちひでみつ・左馬助、光春とも)を安土城攻略に差し向け、自らは秀吉を迎え撃つべく西へ軍を進め、光秀、秀吉の両者は山崎(現在の大阪府三島郡島本町、京都府乙訓郡大山崎町との境界あたり)の地で激突しました。
 

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 両者は円明寺川を挟んで対陣しました。その数、明智軍16,000羽柴軍40,000。開戦直後、兵の数では劣る明智軍でしたが、前線の斎藤利三(さいとう としみつ)隊、伊勢貞興(いせ さだおき)隊が奮戦し、一時は羽柴軍の高山右近(たかやま うこん)・中川清秀(なかがわ きよひで)隊を壊滅寸前まで追い詰めました。
 さらに明智軍の松田政近(まつだ まさちか)は天王山周辺に陣取る羽柴軍の親衛隊である黄母衣(きほろ)衆を圧倒しました。明智軍の士気は高く、倍以上の兵力を有する羽柴軍に対し有利に戦を進め、このまま明智軍が戦線を押し込むかのように見えました。

 しかし、事は光秀の思惑通りにはいきませんでした。羽柴軍の加藤光泰(かとう みつやす)らが密かに川を渡って明智軍に奇襲を仕掛けたのです。
 これにより明智軍は大混乱に陥り、勢いに乗じた羽柴軍が齋藤・伊勢隊を押し返しました。さらに天王山へ兵を進めていた松田隊も、既に天王山を占拠していた黒田孝高(くろだ よしたか・官兵衛)・羽柴秀長(はしば ひでなが・秀吉の弟)隊によって撃退され、明智軍は総崩れとなりました。

 山崎の戦いに敗北した光秀は、再起を図るべく居城・坂本城への退却を決意しました。坂本で軍を集め、態勢を立て直して再戦の機会を伺う…。そんな思いを抱きながら、運命の地・小栗栖(おぐるす・現在の京都市伏見区)へと歩を進めました。
 
 ― 突如、馬上の光秀へ向かって竹槍が突き出されました。
 
 地元の農民の落ち武者狩りでした。竹槍は、光秀の体を貫きました。致命傷でした。

 
「もはやこれまで。」

 そう悟った光秀は、家臣・溝尾茂朝(みぞお しげとも)に介錯を頼み、首が見つからぬよう、近くの竹藪に隠させました。その後、光秀の首は発見した百姓により翌日、織田信孝(おだ のぶたか)の元に届けられ、その後、本能寺にて晒されたといわれています。

 織田政権の中枢で活躍し、戦・政治・外交すべての面で信長を支え、名実ともに織田家筆頭家臣とされていた光秀。しかし、主君・信長に謀反を起こし、最期は天下を目前にしながら農民の竹槍によってその生涯を終えるという非業の最期を遂げたのでした。

 天正十(1582)年、京 本能寺(ほんのうじ)において、主君・織田信長(おだ のぶなが)を討った明智光秀(あけちみつひで)は、中国地方から「大返し」と呼ばれる神速の行軍で駆けつけた羽柴秀吉(はしば ひでよし)と山崎(やまざき)の地にて激突しました。
これが、世に言う「山崎の戦い」です。
 羽柴秀吉との激戦の末、光秀はこの山崎の戦いに敗北し、天下を目前にしながら、最期は京の小栗栖(おぐるす)の地にて落ち武者狩りに遭い、非業(ひごう)の死を遂げました。


 戦に勝利した秀吉は、信長の後継者としての地位を確立し、織田遺臣や周辺大名を退けて天下への階段を駆け上がり、その功績は人々の口伝や文献に記され、現代に伝えられています。その一方で、敗北した光秀は「謀反(むほん)人」「天下人 秀吉に刃向った敵」として、後世に伝えられることになりました。

 今回の青山記念文庫企画展では、平成27年度に八上城が史跡指定10周年を迎えることを記念して、小瀬甫庵(おぜほあん)が記した『太閤記(たいこうき)』の記述をもとにアケチノキモチ」と題して、明智光秀視点で見た山崎の戦いをご紹介します。

 光秀はなぜ天下人になれなかったのか、本能寺の変の後で光秀がとった行動の思惑とはどういったものであったのか。
 是非、皆様の目でお確かめください。
 
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雪の篠山城跡。

今朝の篠山市は一面雪景色でした。

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篠山に観光等でお越しになる皆さま、どうぞお気をつけてお越しください。


(篠山城大書院スタッフ)

篠山市4文化施設

篠山城大書院篠山市立青山歴史村篠山市立武家屋敷安間家史料館篠山市立歴史美術館)では、

この1月に「4館をめぐる‐お正月遊び」として、

お正月らしい、懐かしのおもちゃをつかった遊びを4つの歴史施設で楽しんでいただけます♪

(平成28131日(日)まで)

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入館されたお客様に「お正月遊び」を体験していただいております♪

ありがとうございます♪

 

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めんこ


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木製パズル


お子様だけでなく、大人の方まで、
ご家族皆さまで楽しんでみてはいかがでしょうか?


皆さまのお越しをお待ちしております。


(篠山城大書院スタッフ)


今朝、篠山城三の丸広場には、消防車がいっぱい。
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これは今日、平成28年 篠山市消防出初式が、たんば田園交響ホールにて開催され、

その後、舞台を篠山城三の丸広場に移し、タンク車による一斉放水を行うというもの。

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(三の丸広場北側)

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(たんば田園交響ホール側より)

消防署・消防団の皆さまのおかげで、地域の安全と安心があるわけですね



さて、その たんば田園交響ホールでは
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今日の午後から、篠山市成人式が開催されます。



そして城下町の二階町では
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昨日(1/10)、今日と篠山えびすが開催されています。





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以上、忍者肆代目)がお送りいたしました。


(忍者(肆代目)と篠山城大書院スタッフ

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